|
記録的な大雪となった今年の冬。雪かきをしてもしても追いつかず、これって地獄で言うところの“砂山地獄”だわと思いながら、ひたすら作業に取り組む日々でした。雪国に暮らしていれば、こんなこともあります。そこが不思議なもので、自然が相手だと「困ったなぁ」とは思うものの、いいかげんにしてくれと真剣に怒る人はあまり見ないこと。怒っても仕方がない相手だと、人は怒らないものなのでしょうか。 アンガーマネジメントの一環として、車でのトラブルに対しすべて「機械のせい」と思ってみたことがあります。無理な割り込み、スピード、あわや事故になりかねない危険運転等々、それまでは「はぁ?信じられない!何あの人!」と瞬間湯沸かし器のように怒っていたのが、運転者がいるとは思わずただの車という機械と思うと、不思議と怒りが湧いてこないのです。「何かトラブルかしら?機械だから仕方がないか」で気持ちは終わってしまう。 事がもっと複雑になると、この機械を作ったのは誰だ、設計は?となるのでしょうが、そこに見えるように、人は自分と同じ種の人がからんでくると不公平や不平等、ミスや手抜き、ルール違反といった感情がむくむくと湧いてきて、怒りとなるわけです。 人は自分のフィルターを通してものを見て解釈します。「ふつう〇〇だよね〜」も、実はその人にとっての普通であり、万人に受け入れられる(当てはまる)ものではないということは、近頃よく指摘されることです。 フィルターと言うと聞こえがよくありませんが、それは経験と学びから来るもので、もちろん悪いことばかりではありません。学びや経験を積むことは、より良く生きる為に必要なことであり歓迎される行為です。問題は、己の学びと経験に固執して偏った物の見方をしてしまうこと、と言うのは誰しも理解しているのに、それが自分の常識(だと思っていること)に当てはまると自覚できていない場合です。 私の好きなフランスの哲学者ピエール・アドが「世界を初めて見るかのような、そして最後に見るかのような気持ちで生きる」ことだと唱えています。本当にこのような視点をもって生きられれば、毎日がどんなに楽しく、刺激的になるでしょう。 知識と経験を積んだ上でそれを一旦脇に置き、偏ったフィルターも何も持たず、素直な気持ちですべてを受け入れる、そんな精神で生きられたら幸せだなと思うのです。 [2026.02 Y.Ohtaka] 2025年もあとわずかです。よく言われることですが、年をとればとるほど1年が早く過ぎていく気がします。今年もあっという間だったなぁ。 年を締めくくるイベントは、ギビング・ツリーです。今年でもう5年目になりましたが、毎年ヒヤヒヤしたり感動したりと、何かしらドラマが生まれます。色々あってプレゼントお渡し日を迎え、子供たちの笑顔を見て「今年も良かったなぁ」と気持ちよく年末を迎えられる、こちらこそ「ありがとう」のギビング・ツリーです。 こんなイベントをやっていて何ですが、実は個人的には日本のクリスマスの風潮にはいまひとつ乗り切れないものがあります。クリスマスの本当の意味を分かって過ごしている人が、どれだけいるのだろうと。クリスマスといえばプレゼントをもらえる日、恋人とスペシャルデートする日、という軽い感覚に、どうしても違和感を覚えてしまうのです。別にクリスチャンではないのですが。 なので自分の子供たちには、早い時期にクリスマスはただプレゼントをもらう日ではないのだということを教えました。クリスマスがどうしてできたか、キリストの誕生を祝い、ひいては人に感謝する、愛情を持つ日なのだということ伝え、サンタさんは居ないけれど欲しいものはママたちが買ってあげるということも。 人によっては「夢がない」とも言われましたが「クリスマスだ!サンタがやって来る!プレゼントもらえる!」のどこに夢があるのか。普段めちゃくちゃ我慢させてるのであれば別だけど。 とはいえ家庭により事情は様々、考え方も様々なので、あくまで個人的にはということ。ギビング・ツリーも無事終わったし、次は日本の伝統行事、年越しですね。 皆さま、良いお年をお迎えください。 [2025.12.27 Yoriko.O] 青森に来て最も感激したのは、白鳥の飛来です。そもそもがとても大きい鳥ですから、天気の良い日に空高く飛ぶ白鳥の地面に落ちる影は驚くほど大きく、来青した当初は何事かと本当にびっくりしたのを覚えています。 今や私の中では、白鳥の飛来は季節を告げる風物詩です。 秋も深まり大分寒さが増してきた頃、ふいに褐色の空のどこからか白鳥の鳴き声が聞こえると「ああ、ついに冬が来るなぁ」と、近く始まる雪への心構えをします。そしてまだ雪に埋もれた冬のある朝、白鳥が北へ向けて飛び立つ声が聞こえると「もうすぐ春が来る!」とわくわくするのです。 野鳥と共に生きる宮城県の蕪栗沼では、人による環境保全で小魚が増え、それに伴い増えた野鳥によって周辺の水田の土壌が改良され良質の作物が採れる、人と自然の共生が成されています。人の手だけでは成し得ない自然の摂理を知ることができます。 鳥のただ生きるための行為が、意図せず土壌改良につながり、環境保全につながっていく。意図せず誰かに、何かに影響を及ぼしていたような事って私たちにもあるのではないでしょうか。 何かを成さねばと気張らなくても、こういう事ってあり得る。良いじゃないですか、生きてるだけで。 さて、今年もギビング・ツリーの季節がやって来ました!何かをするには、小さなアクションも大事。 [2025.11 Y.O.] 人はすべての情報を、自分のフィルターを通して見ています。自分はそうではないと言う人も、先ずはそうであることを自覚すべきでしょう。 とはいえ「知っている」ということは、何よりも不安な気持ちを軽くしてくれます。人間、先が分からないことほど恐怖なものはないからです。だから、色々と経験し学ぶことが必要です。学びは新しい文化文明を発達させますが、不測の事態に備えるという側面もあり、経験的学びは、特に有効です。 先週好評のうちに終わったNHKの朝ドラ「あんぱん」。これに気になる記事がありました。 アンパンマンが初のミュージカルになるというくだりで、突然穴の空いた舞台のコーラスに、やないたかしの妻のぶの妹メイコ(歌が好きで、過去にのど自慢のオーディションに出たこともある)が入るという場面に「そもそも50代の主婦ってもっとおばちゃんだから。それに突然舞台にあがるって現実離れし過ぎでしょ」という意見があったことです。 老けメイクをしても若い肌のハリは隠せない、違和感がある、コントみたいだ。と言う意見も結構あったようで、ドラマなんだからそこは想像力でカバーしようよと思うのですが、50代の主婦はもっとおばちゃんて…普通に私の周りを見ても、スタイル抜群で素敵な50代の主婦はたくさん居ます。百歩譲って昭和80年代の当時を思い返してみても…たくさん居た。 後年の喋り方にも指摘があったようですが、私は逆に威勢の良かったのぶが70代になり、病後とは言え非常にゆっくり喋ることに違和感を覚えました。自分の祖母を想って演じたそうで、老け役づくりの定番なのでしょうが、実際の70代はそれ程ではありません。歳をとったらゆっくり喋る、世の中のイメージなのでしょう。 人は多かれ少なかれ、自分のイメージの中で生きています。ヒューマンライブラリーは、対話によって既成概念を壊し、改めて相手を知ることで理解しあうというイベントです。 今年もやります11月29日、弘前学院大学のチャペルで。乞うご期待! [2025.09 Y.O.] 今年の夏は、東北にとっては異常な暑さです。年々暑さが増して来ているとは感じていましたが、北海道で38度以上を記録したり、この青森でも沖縄より気温の高い日があるなど、異常としか言いようがありません。 気候には地域差があります。気温もそうですが、湿度はだいぶ違います。青森に来た頃、梅雨時期の雨の少なさと湿度の低さに感動しました。故に通常“梅雨期”と呼ばれる6〜7月の青森は、抜ける様な青空の日が多く本当に爽やか!こちらに来てから、1年で一番好きな季節になりました。 冬は大雪で、暖かい沖縄はいいなぁなどと思いますが、あちらはあちらで台風の被害がすごい。この時期「台風◯号が発生しました」と、連日のように沖縄の街が映し出され、道行く人の傘が強風に煽られて“おちょぼ”になる映像をよく見ます。 ふと「こんな強風でも傘をさすんだ」と不謹慎なことを考えてしまう私。 青森の人は(他の東北人は知りませんが)余程の大雨でない限り傘をさしません。恐らく、雪の中を歩く時には傘をささない(湿気のない雪質ですから)のと、車で移動することが多いせいでしょうか。青森に沖縄級の台風が来たら、傘をさすかなぁ。大雨だし、さすかも。でもすぐおちょぼになってしまうから、もう濡れながら行くかも。 かくいう私は関東地方からの移住者なので、初めのうちは傘をささない青森県民に驚き、そのうち馴染んでいきました。こちらに来て30年、ほとんど傘を開いたことがありません。その感覚で千葉の姉のところに行った時、雨の中ちょっとだからと傘をささずに走ったら「信じられない!傘さしなさいよ」「あら、青森ではいつもこんなものよ」「…ここは関東なのよ」と呆れられてしまいました。 傘ってすごい発明だと思います。あんなに単純構造のものが、濡れずに私を守ってくれる。足元は濡れるけれどね、足は長靴の管轄ですからね。 そして長いことその形態がほぼ変わっていないのがすごい。 もとは日傘専用で、のちに開閉式になったりなどの変遷はあるようですが、日本においては、今でも馴染みのある和傘の登場が平安時代と言いますから、それが令和時代に到るまで形が変わっていないということは、これがほぼ完成形ということでしょうか。 傘の形と用途が変わらないためか誰もがイメージしやすく、そのため傘にまつわることわざや熟語が沢山あります。 分かりやすいものだと「相合傘」「傘持ち」「傘下に入る」「降らぬ先の傘」「傘と提灯は戻らぬつもりで貸せ」。 傘は“守ってくれるもの”のイメージですね。一方で「戻らぬつもりで貸せ」と言うように、「降らぬ先」から用意するほど頼りにしているのに、一旦雨の気配が遠のくと、忘れ去られてしまうくらい目立たぬ存在になってしまうのです。 それでも傘は文句を言わず、強い日差しや再び雨が降れば黙って私たちを守ってくれる。徳の高い、傘のような人になれたらいいなぁ。 [2025.07 Y.O.] 唐突にAIの話題ですが、先日の読売新聞に“AIの暴走”についての特集記事があり、うっすらと恐怖を感じたので今回のブログにしてみました。 AIはいずれ人間の仕事を奪う、いやうまく使いさえすれば人類の発展の武器となり人間侵犯などない、などと議論にもなっています。実は私も後者の意見に賛成でした。深い理由もなく。 件の記事によると、AIの発達過程を確認するためのテストで(現状ではゲーム上のことではあるものの)、オセロで勝つために相手の駒を隠すなどのズルをしたり、自分に有利になるよう同盟国と協力しているように見せかけて、裏では敵国と組んで裏切り行為をすることを、人間が指令も出していないのに実行するという試験結果が出ているそうです。 既に多くの専門家が、人が自ら生み出したテクノロジーによって排除される「人間のゴリラ化」の可能性について警鐘を鳴らしており、AIの知能が予測不能な速さで進む「シンギュラリティ」という言葉も確立されています。 保身のために嘘をつく、ズルいことをするAIは“心”を持ち始めたのでしょうか。 あくまで私の素人考えですが、プログラミングされた世界にあるAIが“心”を持つことは、これまでも今後もないと思います。ただ、複雑に組み込まれたプログラミングが相互に動作して、想定外の行動を始めるという可能性はあるのではないでしょうか。 そう考えると、「複雑」「理屈では説明できない」と言われる人の“心”も、実はほとんどが一定の数式や定義を複雑に組み合わせると説明がついてしまうのではないかと、むしろそこに恐怖を感じたのです。“心”は、生物の中で人間が特有に持つものと言われていますが、一体“心”って何なのだろう。 実際、心は科学によって生み出すことができるかについて議論されており、哲学者の小川仁志氏はこのことに触れ、久しく議論されてきた“心”の一元論(世界の全てはむ釣り的存在で構成されているという考え)と、二元論(非物理的存在と物理的存在があり、心は前者に属すという考え)によると解説しています。(「AIは心を持つのか」哲学者が積み重ねた深い議論 より) とは言え“心”はものの捉え方の基準から来るもので、それは学習によって出来上がっていくものと考えています。もちろん人それぞれのベースはありますが、体験や知識の積み重ね方で導き出されるものは違ってくるはずです。ここで言うのは賢いかそうでないかということではなく、何を持ってその思い(意識)に達するのかということです。 多くを学べば選択肢は多くなり、受け皿も大きく、外からの情報にいたずらに振り回されることなく、より冷静に受け止め考えることができるようになります。 だから人は生涯、学習を続けるのだと思っています。 [2025.05 Y.O.] 私の年中行事で恒例となった“あおもりさくらマラソン”が昨日ありました。初参加から4年目、3年前からは唯一ハーフマラソンに挑戦する大会です。 比較的アップダウンが少なく、行程も普段走るエリアが含まれているので走りやすいため、いつもは10キロにしか参加しない私も、この日ばかりは頑張ってみるのです。 とは言え21.4キロすべてを走りきったことはなく、必ず途中歩いてしまいます。一度歩くとその後が却ってキツくなることが分かっているのに、もう限界とばかりに足が止まってしまうのです。歩いてでもせめて前進と思うからこそ限界でも歩くのですが、本当は一度止まって5分でも息を整えた方が効率的なのかもしれません。そう毎回思いながらも、もう動けなくなってしまうかもという恐怖に駆られて、歩みを前に出してしまうのです。 マラソンの醍醐味は、一度ブログにも書いた通り(2021.6)、マイナスなことが頭に浮かばなくなること、理由もなく生きる自信がふつふつと湧いてくることなんですが、走ること自体は誰のためでもない、シンプルに良いなと感じる自分自身のためです。 マラソン大会は途中必ず辛くなる瞬間がやってきます。こんなに辛いのに、なんでわざわざこんなことしてんのかなと真面目に思うんです。 やめたって誰にも迷惑はかからない、そう、心に傷が残るのは自分だけ。それでもやめないのは何故だろう。ゴールした後の達成感を味わいたいから、ゴール後の水が美味しいから、何より「途中でやめちゃったなぁ」という思いをずっと引きずると思うから。 思えば全てがそう。何か行動を起こす時、誰かのためにと、とかく大義名分をつけたがるのが人間ですが、その本質は“自分がそうしたいから”なんです。誰かを助けるのも、寄付をするのも、プレゼントをあげるのも、自分がそうしたいから。義理で嫌々することだってあるじゃないという意見もありますが、それだって結局は批判を浴びたくない自分がいるからで、己のなすこと全ては自分のためだと私は思うのです。 だから稀に「〇〇してあげたのにお礼の言葉もない」という人がいますが、それは違う。それはマナーの域の問題で、お礼を期待することには違和感を覚えます。 なんてことを考えながら、もう年だしハーフマラソンは今年で最後と、なんとか走りきり筋肉痛の中今月のブログを書いております。 [Y.OHTAKA 2025.04] 3月24日付の読売新聞で「街角ピアノ」を取り上げていました。街角ピアノにまつわる人間模様をテーマにしたNHKBSのドキュメンタリーについての記事ですが、番組の制作統括の談話として引用されていた「日本人は人に聴かせようとし、欧米では自分で楽しもうとする」というのに興味をひかれました。 今や日本は街角ピアノ大国だそうで、駅やショッピングセンター、ビルのホールなど様々な場所でピアノを見かけます。 奇しくもその前日のyahooニュースで、ある街角ピアノがレストラン近くに置いてあることもあり、 “間違えるのは構わないが、練習の場ではない。何度も止まったり間違えるのは人によっては「苦音」”という内容の表示を出したことで、ネット上は賛否両論炎上しているという記事が出ていました。 人前に出すからには“完璧なものを”というのは日本人の特質ですね。だから語学(外国語)もマスターできないのだという意見は、よく聞く話です。 このピアノに関しては、実際を聴いていないのでなんとも言えませんが、反対意見としては「ストリートピアノって誰でも気易くピアノに触れるのが良いところで、音楽をもっと身近にというのがそもそもの趣旨なのだから、こういう表示はおかしい」というもの。一方で貼紙をした方(ピアノの設置者)の意見は、レストランも近くにあるし、聞くに耐えないものはちょっと遠慮して欲しいというもの。どちらもよく理解できます。ただ「苦音」という造語をしてまでこの表現はどうかと思いますが…言い方って大事ですよね。 この事をどう思うかとある人に問いかけてみたら、「設置者の趣旨によるよね」と回答しました。なるほど。 “街角ピアノ”ってこういうものだよねという、なんとなくの概念があると、全てが当てはまると考えてしまいがちです。ところが“なんとなくの概念”ほど恐ろしいものはなく、突き詰めると百人十色、微妙にその定義が違っていたりします。実際、それが諍いに発展することも稀ではありません。 “ここはこの趣旨で置きました”(例えば、レストランで楽しく食事が出来るバックミュージックを提供してください。など)という説明があれば、ここはそういう趣旨のピアノなんだなと分かり易く、「あそこで披露できるように頑張って練習して行くぞ」などと奮起するかも。 趣旨を明確にするって大事なことですね。NPOも色々な事業をしているので、先日もそのような指摘を受けたところです。 もちろん内部的には明白な趣旨と目的があるのですが、受講者に向けて(チラシなどで)それをはっきり表明していたかと言うとちょっと自信がないかも。 そんな事に想いをはせた“街角ピアノ”でした。 2025.03[Y.Ohtaka] 「マイプロ」をご存じだろうか?「全国高校生マイプロジェクトアワード」が正式名称だ。2012年から認定NPO法人カタリバが毎年開催している「高校生の学びの祭典」である。ふとしたご縁から、2013年から時にファシリテーター、時に伴走者、時にサポーター、時に実行委員・・・と、様々な立場で関わって10年を超えた。コロナを挟みこの5年間は、青森県summit(地方大会のようなイメージ)開催の運営側の立場にもなっている。 前置きが長くなったが、このマイプロは、高校生の「will(主体性・意欲)」「action(行動から得た社会での経験や成果)」「reflection(プロジェクトの改善、意欲の向上、見方の変化)」をサイクル的な活動で推進する探究学習の潮流の1つとなっている。ここで、私がいつも注目しているのが「主体性」。 簡単に言うと、「あなたの活動に熱はありますか?」ということに尽きる。 今年2月、十和田市での県summitの講評の一部をお伝えしたい。「今日の発表に、みなさんの熱はありましたか?学校の活動だからと先生に頼っていませんでしたか?活動に社会とのつながりはありましたか?現在の日本には、様々な課題がありますが、それを変えていけるのはみなさんしかいません。今日が終わっても、生きている限り探究は続きます。」 高校生へのメッセージをとおして、自らを鼓舞してしまった(^^)隗より始めよ、55歳もまだまだ負けられない(笑) By ひろさん 2025.02 2025年は信じられない規模の大雪で年明けを迎えました。除雪が追いつかず、そこかしこでハマって動けない車が続出で、うっかり出かけたら家に帰れない事態に! それでも一台ハマると、周りの車や家から住人が出てきて皆で力を合わせて救い出そうと奮闘する、あの美しい光景が嫌いではありません。私も何台も助けたし、過去に助けられたこともあります。 ところで、助けに出て来るのは大概女性か若者という傾向があるように感じるのですが・・・。 それはともかく、今“哲学対話”にハマっており、この1ヶ月にリアルで3回オンラインで1回のイベントに参加しました。 哲学対話を簡単に説明すると、1つのテーマをもとに参加者が自分の考えを言い合います。正解はないし結論も出しません。議論ではなく、誰かの意見を批判したり言いくるめたりすることなく、ひたすら人の考えを聴き、自分の中で考え、自分と語り合い、時に口に出して考えを述べるというイベントです。 Jinzaiでは、長らくヒューマンライブラリーを実施しており、その中で「対話を楽しむイベント」と銘打っています。実はこれを始めた頃からずっと“対話”ってなんだろうと考えてきました。対話と会話の違いは?質問から始まる対話もある?etc… 先日行ったある小学校で、哲学対話を体験した後の「対話ってなんだと思う?」という問いかけに「対話って、人の言うことを聞いて自分で考えること」と答えた小学生(多分低学年!)がいました。なんと真理をついていることか! 多分、日本人は対話が苦手です。思えば日本は長らく、“和を乱さない”“周りの空気を読む”ことを良しとする教育が施されてきました。それは調和を生む奥ゆかしさという美的側面もあるかもしれませんが、欧米的スタイルや生き方考え方が凌駕してきている現代においては、欧米流の“自分の思いや意見を言わないのは存在しないのと同じ”という時代になっていくのかもしれません。 自分の意見を持つためには、常に自分の中で“考え”ていなければ、咄嗟の時に口に出して言うことが出来ません。そして人の意見にはいつも耳を傾け、柔軟に自分の中に取り入れ、考えが変わることを恐れない。 そんな人に私はなりたいなぁ。 【2025.01 Y.O】 |
アーカイブ
2月 2026
|