2025年は信じられない規模の大雪で年明けを迎えました。除雪が追いつかず、そこかしこでハマって動けない車が続出で、うっかり出かけたら家に帰れない事態に! それでも一台ハマると、周りの車や家から住人が出てきて皆で力を合わせて救い出そうと奮闘する、あの美しい光景が嫌いではありません。私も何台も助けたし、過去に助けられたこともあります。 ところで、助けに出て来るのは大概女性か若者という傾向があるように感じるのですが・・・。 それはともかく、今“哲学対話”にハマっており、この1ヶ月にリアルで3回オンラインで1回のイベントに参加しました。 哲学対話を簡単に説明すると、1つのテーマをもとに参加者が自分の考えを言い合います。正解はないし結論も出しません。議論ではなく、誰かの意見を批判したり言いくるめたりすることなく、ひたすら人の考えを聴き、自分の中で考え、自分と語り合い、時に口に出して考えを述べるというイベントです。 Jinzaiでは、長らくヒューマンライブラリーを実施しており、その中で「対話を楽しむイベント」と銘打っています。実はこれを始めた頃からずっと“対話”ってなんだろうと考えてきました。対話と会話の違いは?質問から始まる対話もある?etc… 先日行ったある小学校で、哲学対話を体験した後の「対話ってなんだと思う?」という問いかけに「対話って、人の言うことを聞いて自分で考えること」と答えた小学生(多分低学年!)がいました。なんと真理をついていることか! 多分、日本人は対話が苦手です。思えば日本は長らく、“和を乱さない”“周りの空気を読む”ことを良しとする教育が施されてきました。それは調和を生む奥ゆかしさという美的側面もあるかもしれませんが、欧米的スタイルや生き方考え方が凌駕してきている現代においては、欧米流の“自分の思いや意見を言わないのは存在しないのと同じ”という時代になっていくのかもしれません。 自分の意見を持つためには、常に自分の中で“考え”ていなければ、咄嗟の時に口に出して言うことが出来ません。そして人の意見にはいつも耳を傾け、柔軟に自分の中に取り入れ、考えが変わることを恐れない。 そんな人に私はなりたいなぁ。 【2025.01 Y.O】 12月24日の正午から12月25日の正午まで、毎年恒例のRABラジオチャリティ・ミュージックソンが開催されます。今年で45回となるこの催しでは、目の不自由な方が安心して街を歩くことができるよう、県内で75基目の「音の出る信号機」を設置するための募金を行なっています。これまでに2億2940万1903円の募金が集まり、県内の「音の出る信号機」のおよそ4割がミュージックソンの募金で設置されているといいます。 今年のテーマは「今、考えるべきこと」。毎日の生活の中で見えているのもの、聞こえてくるもの。特に気に気に留めないものが沢山あります。例えば音の出る信号機。 国道4号線や7号線などの大きな交差点に立つと、「カッコー、カッコー」や「ピヨ、ピヨピヨ」という音が聞こえてきますが、その違いを知っていましたか。交通量が多い幅の広い道路は「カッコー」、交通量の少ない幅の狭い道路は「ピヨピヨ」の音で、目の不自由な人に渡るタイミングを知らせているのです。 カッコー、カッコー・・・そう聞こえますよね。でも実際は、こちら側で「カッコー」、あちら側「カカコー」なのです。気づいていましたか。ピヨ、ピヨピヨも同じです。こちら側で「ピヨ」、あちら側で「ピヨピヨ」。 交差点を渡るとき、私たちの多くは目からの情報によってどっちの方向に歩いているのかを把握できています。それが困難な目の不自由な方に、「カッコー、カカコー」と「ピヨ、ピヨピヨ」は道路を横断する際の方向を伝えているのです。そんな大事な役割の音の出る信号機ですが、夜間時は音が止められているのです。知っていましたか。 知らないことが多すぎます。もっと知らなければならないと思うのです。そして、考えなければ…。 障害はどこにあるのでしょうか。目の不自由な人は「目」に障害がある。耳の不自由な人は「目」に障害がある。足の不自由な人は「足」に障害がある。 私は、間違っていると思います。全ての人が不自由なく暮らすことの出来る社会でないのであれば、「社会」に障害があると考えるのが正しいと思います。 私たちにできることは何か、すべきことは何か。考えるべきときだと思います。 〜レスタ・ワールドカフェ2024における講話より〜 [2024.12.15 坂本 徹] 今年もギビング・ツリーの時期がやって来ました。 ちょっとお困りのご家庭のお子さんから集めた“クリスマスプレゼントに欲しいもの”オーナメントを道ゆく人が見て、これはと思うものをプレゼントするというアメリカの習慣です。 青森でも少しずつ浸透しきているのか、毎年ご協力頂くRABニュースの賜物か、今年はオーナメント展示当日で7割方プレゼンターさんが決まりました。4年目となりますが今までにない快挙で、本当に感謝の気持ちで一杯です。 そんな中「これって検証はしてるの?一発ものじゃ意味ないわよね。平等じゃなじゃない」と言い、立ち去ったご婦人がいました。何かひとこと言いたかっただけかもしれませんが、当然こうした意見を持つ人もいらっしゃると思うので、ちょっとブログのテーマにしてみました。 “平等”て何でしょうね。 全ての人が同じレベルで居ること?それを実現しようとするのが社会主義だと思うのですが、それはそれで「あいつより俺の方がすごい仕事をしているのに、同じ分しかもらえないのはおかしい」となる。つまり感覚的なもの(仕事量や価値感の優劣など)が入ってくるとややこしくなる。だから行政では明確な基準が必要となり、収入や財産などがその“検証”対象となるのでしょう。“行政では”それが正解だと思います。 ただ、私たちのような活動は福祉活動ではないわけで、純粋に遊び心も持ちつつ、行政の基準の谷間に入ってしまう人、心象的なものや感情的なもの、全てを含みつつ贈る人、贈られる人にとっての真心の行為であり、人間は複雑なんです。何より主眼は“人と人をつなぐ”ことにあります。 さて本題に戻って“平等”について。 ギビング・ツリーに関して言えば、全家庭に配布される広報でオーナメントを募集し、受付は先着順です(実際は定数をオーバーしてないので、応募全員を受けています)。誰にでも同じくチャンスがある、門戸が開かれている、これこそが平等ではないかと思うのですがいかがでしょうか。 すべてに基準を設けてバッサリいくのも、ちょっと淋しい気がします。 [2024.11 Y.Ohtaka] 子どもの頃、親に「どうして?」と質問して困らせた経験、ありませんか? たとえば、「赤ちゃんはどこからくるの?」「空はなぜ青いの?」「どうして勉強しなくちゃいけないの?」など。そういう時、親がどんな反応をしてくれたか、覚えていますか? もしかすると、「自分で考えなさい」「知らないよ」「先生に聞きなさい」と言われたり、「そんなこと考えるなんて変な子ね」といった反応が返ってきたかもしれませんね。私もそういう経験をした一人です。 実は、これらの反応は、無意識のうちに子どもの探究心や好奇心に蓋をしてしまう可能性があります。探究心や好奇心は子どもの成長にとって重要な原動力です。それらに蓋をしてしまうと、彼らの世界が狭まってしまう可能性があるのです。 だとしたら、「問いを受け止める力」が大切です。子どもが「どうして?」と聞いてきた時、たとえすぐに答えられなくても、「いい質問だね」「凄いことに気がついたね!」といった一言が、子どものさらなる探究心を引き出すのです。そして、すぐに答えにくい質問には、「一緒に調べてみようか」「あとでゆっくり話そうか」と、子どもと一緒に考える姿勢が大切です。これによって、子どもは「疑問を持つことは良いこと」と自然に理解し、考える力を伸ばしていきます。 問いを受け止める姿勢は、対話の出発点です。問いに応じて即座に解決策を提供することよりも、その問いに価値を見出し、子ども自身が考えを深めていく過程をサポートすることが、彼らの成長に大きく貢献します。問いに対して「一緒に考えよう」という姿勢を示すことが、互いの信頼関係を強化し、同時に好奇心と探究心を育む土壌をつくるのです。 実際、子どもの純粋な「なぜ?」という問いかけは、私たち大人にとっても新しい発見のきっかけとなることが少なくありません。子どもたちの目を通して世界を見つめ直すことで、私たち自身も豊かな思考力を育むことができます。 次に子どもから「どうして?」と質問された時には、ちょっと立ち止まって「一緒に考えよう」と誘ってみてください。その瞬間が、お互いにとって、心豊かな成長の始まりになるかもしれません。 [2024.10 佐藤 智絵] 9月14〜16日にかけて、新郷村石ケ守にあるログハウスでキャンプを行いました。私たちとしては初の小学生を対象とした事業です。 キャンプの目的は、自然に親しむというのがメインではなく、自然の中で圧倒的に不便!(水もガスも電気もない)という環境を“ツール”として使った、他人との共同生活の中で自己を見つめひいては自己肯定感を上げるという、アドラー的教育法が隠されています。 ですから、スタッフ(大人)は、ほぼ口出ししません。スケジュールも一応ありますが、それをこなすかどうかは子供次第。喧嘩が勃発しても仲裁はしない。全ては子供に委ねられます。 これは大人にとっても修行です。 頭では理解していったハズなのですが、「次はこれやるから、はい!遊ぶのやめて」とか「さあさあ、もう遅いから寝なさい!」とか、ついつい言いたくなってしまうんです。でもそれって結局大人が管理しやすいからなんだなというのを改めて実感しました。 はじめのうちは、必ずしもスケジュールをこなしきれなくてもいいし、うるさく注意しなくて良いんだというのが楽で、ただじっと見守っていましたが、だんだんと日を追うにつれ言いたくなってくるんですよ。「さあ、もう次やるよ!」とかね。 子供は自由で独創的す。ひとつの遊びに熱中すればいつまでもやっています。食事もそっちのけで。それを続けさせるのは良いことだとは冷静には理解していますが、実地で、しかも複数人数の子供を預かるキャンプで実行するのに忍耐力の要ること! しかも口も手も出さないということは、それ以上にしっかり見守っていなければいけないということです。ものすごく神経を使いました。 それでも振り返ってみれば、ほぼ予定通りスケジュールはこなしたし(あくまで本人たちの意向で)、子供たちからの発想でより楽しくなったイベントもありました。小競り合いもあったし元気が無くなった時もありましたが、大きな喧嘩や怪我もなく、トータルで子供も大人も楽しめたキャンプだったと思います。 子供たちが何を持って帰ったかは分かりませんが、ひとつの経験値として彼らの中に残っていくことを願っています。 [2024.9 Y.Ohtaka] 今年は夏が来るのが早い!青森6月の日中平均気温が26〜28度って、異常です。 そんな暑い(と思われる)夏の終わりに、NPOの新事業として新郷村でアドベンチャーキャンプをやります。なんで新郷?なんでキャンプ?と思われることでしょう。 新郷村には、学校の先生だった理事長のお父上が、不登校の子どもたち及びその家族の交流の場として、私財を投じて建てたログハウスがあります。当時は素晴らしい取り組みとして新聞にも取り上げられた様です。 長らく放置されていたハウスは、痛むこともなく今も立派に佇んでいます。ひと山を購入して建てたので、周りも手付かずの自然がそのまま残った魅力的な環境です。これを有効利用しない方はない! 9月に予定しているキャンプのために、先日第1回目の整備に向かいました。なにかの小動物が一時的に住んだ痕跡はあるものの、ほとんど汚れもなく、今すぐにでも泊まれそうです。(ただし発電機がないと電気がない!ガスもない!) 道中、仲間がニセアカシアの花を天ぷらにすると美味しいと教えてくれました。どこで手に入れるのかと聞くと「その辺で採って食べる」と。「えっ」と少し引き気味に、それでも絶品だというその味に興味津々です。 新郷の山はハウスの掃除や網戸の張替えだけでなく、下草刈りに、茂り過ぎた枝の伐採など力仕事もたくさん。その中で、動線上ない方がいいよねという場所にニセアカシアの木が!手引きのこぎりで伐採できる程度の太さでしたので伐採することにしました。木には花がたくさん、天ぷら素材の宝庫! いやぁ〜美味しかった!まだ味わったことのない方は是非入手して食してみてください。その辺の採って食べようという気になるくらい美味しい。 以来、道路側に茂っているニセアカシアを見ると、もはや巨大な天ぷらにしか見えなくなりました。 いやニセアカシア天ぷらでなく、キャンプ、楽しみにしていて下さい。 [2024.6 Y.Ohtaka] むっちゃんは中学から高校までの同級生でした。中心で活躍するような華やかな人物ではありませんでしたが、物静かだけれどおとなしいわけでもなく、派手ではないけれど清楚で美しく、頭は良かったなぁ。とにかく性格が良い。分け隔てなく、誰にでも丁寧で誰にでも優しい。大好きでした。 私は特に仲良くしていたわけではないけれど、中高一貫で1学年200人しかいない学校だったので、6年の間には大体全員と友達になります。むっちゃんと話すと、ほんわかします。 とても印象に残っているエピソードがあります。 ある時仲良しグループの一人に「むっちゃんて完璧だよね。顔も可愛いし成績もいい。性格もすっごくいいし、欠点ないよね」と言ったら、即答で「欠点がないのが欠点よ」。 え〜っ!?そんなことってある? 発言した友人も、ごく普通の良い子でした。あまりにびっくりしたのでその場はさらっと流してしまいましたが、今だに鮮明に覚えている。そして人の心の機微に興味を持った今、時々思い出しては考えるのです。この言葉が出た心理はなんだろうかと。 友人と私の関係性から考えて、嫉妬ではないと思う。常々むっちゃんへ抱いていた“うらやましい”という気持ちの表れ?特に嫌いではなかったはず。だって嫌いという感情を抱くほど、彼女(友人)もむっちゃんと接点はなかったから。 人は利害に関係なく、いやむしろ利害に関係ないほど他人を叩きたくなるもののようです。 人は論理的にもなかなかなれないらしい。どんなに論理的合理的思考を心がけていても、結局はとっさの直感(感情)に基づいて行動しているという説が結構出ています。 そう考えると、文化文明はものすごく発達したものの、人間て内面的にはどれほどの進化を遂げてきたのでしょうか、もしかしたら退化していたりして。 ただ、とっさの感情を形作るのは経験値です。簡単な例えで言えば、スイカを食べたら甘くてジューシーだったという経験から、夏の暑い日にスイカを見ると喜んで手が出ます。冷えてないなと分かれば、ちょっと躊躇するかもしれない。 経験からくる学びって世の中で認識されている以上に重要です。同じ経験から、人によって何をどれだけ学び取るかは違いがあります。それでも良いのです。大切なのは、「この事からこういう事が学べます」と押し付けるより、学習者を自然とそういう方向に向ける仕掛けです。 さて今年、Jinzaiでは新たな事業として小学生を対象としたキャンプをやります。どんな内容になるか・・・乞うご期待! [2024.04 Y.Ohtaka] 先日、20年ぶりに長崎原爆資料館を訪ねました。前回は修学旅行の引率で慌ただしい日程でしたが今回はゆっくり。目的は原爆の真実を改めて確認すること。 展示室のある地下2階へカウントダウンの数字をたどって円形スロープをゆっくりと下って行きます。2000、1995、1990 ・・・1950 、そして1945年にタイムスリップ。入口に「長崎を最期の被爆地に」 というメッセージと共に、11時2分で止まったままの壊れた時計が展示してあります。 かつて我が家の居間にもそっくりな時計があったのを思い出しました。父母の結婚記念のゼンマイ仕掛けの柱時計です。幼少期から高校まで僕はその時計の下で過ごしました。両親や妹たちに囲まれ、裕福ではないけれど穏やかで平和な暮らしでした。アニメ「サザエさん」のような昭和の時代のささやかな幸せ。あの頃は気にも留めない存在でしたが、柱時計はどの家でも小さな幸せの象徴であったとように思えるのです。長崎にもそんな平和な暮らしがあったはずでした。1945年8月7日 11時2分、それが一瞬にして消え去りました。 他人事ではないのです。たまたま長崎だったのであって、日本中のどこもが被爆地になる可能性があったのですから。当初、原爆投下の第一候補が京都であったことや、模擬原子爆弾による投下訓練が全国30都市で49回も行われていたことはあまり知られていません。8月7日当日も、小倉(北九州市)の予定が天候のせいで急遽長崎に変更されたのでした。 戦争を終わらせるため…今でもそう主張されていますが、だからと言って民間人の大量殺戮が正当化されて良いわけはありません。数々の遺物がその悲惨さを証言し、その後も苦しみ続けた人々の声が聞こえてきます。真実を確認するために再訪したというのに目を覆い耳を塞ぎたくなるほどです。本やネットの情報で理解したつもりになっていましたが、『何も知らなかった自分』に気付かされました。 爆心地に立って辺りを見回すと、そこには静かな公園と住宅街が広がっていました。ゼンマイ仕掛けの柱時計はないかもしれないけれど、どの家でも平和な時が刻まれているはずです。「長崎を最期の被爆地に」 というメッセージと共に。 近いうちに30年ぶりの広島を訪ねようと思います。 [2024.3.26 坂本 徹] 2024年はあらゆることが変わる年と言われています。それは大体占星学や九星気学などいわゆる“占い系”からよく聞こえてくる話ですが、なんだ占いかと侮るなかれ。占いとは、要するに“統計学”です。統計は科学的根拠としてあらゆる論文やプレゼンで使われ信頼度も高いのに、占星などに限って軽く扱われるのはどうしたことでしょう。例えば九星気学などは、天気予報よりも歴史が古いそうです。 未来なんて結局予想がつかないのだから、信用できないといったところでしょうか。 何事もそうですが、要はそれに囚われすぎて行動が偏るのが良くないわけで、雨が降る確率が高いというなら傘を持っていくに越したことはない、その程度にうまく利用すれば良いわけです。 さて2024年は何が変わるかというと、これまでの常識が大きく覆され、是正される年だそうです。 とはいえ、物事ってある日を境に急に変わるものではなく、徐々に徐々に変わる方向に向いていた事や、おかしいんじゃないかと思われながらも潜在していた事柄が明るみに出て正されていくと言った感じでしょうか。世の中のニュースを思い浮かべても、思い当たる事象はありますよね。 何が正しいとは言えない世の中ですが、過去の歴史を顧みると、未熟な人類はこうして過ちを繰り返しながら少しずつ方向修正をして成長していくのかなと思っています。 かくいう私は今年年女。年始のお参りも念入りにしたし・・・と安心していたら、日本の暦では年の変わり目は節分ということを最近知りました。お正月のお参りは年度末のいわばお礼参りにあたり、年始のお参りは2月4日以降ということで、先日岩木山神社に行ってきました。 神社へのお参りも、本来は“お願い”ではなく“宣誓”をする場であり、「私は〇〇をします!」と神様に誓いをたてにいく行為だそうです。だから何度も行って、その度に誓いを思い出し(自己確認し)努力する、目標達成したらお礼参りで報告する。なんて理にかなった先人達の行為でしょうか。神頼みではなく、やっぱり自分次第なのです。 というわけで、岩木山神社でのお参りの内容は・・・内緒です。 [2024.2.6 Y.O.] 明けましておめでとうございます。
昨年は色々とお世話になりました。 チャレンジ先生のエンジョイ講座、ヒューマンライブラリー、高校生チャレンジチーム、ギビングツリー、あおもりゆめ奨学金。 いずれも皆様のご協力とご支援があってのものばかりです。 ありがとうございました。 今年もよろしくお願いいたします。 令和6年が皆様にとって良い年でありますように。 大晦日の紅白歌合戦を珍しくちゃんと見ました。 例年は前半に酔い潰れて気がつくと除夜の鐘だったのですが…。 ゲストで黒柳徹子さんが出演していました。 私にとっての黒柳さんはやはりザ・ベストテンです。 テレビで拝見するのは久しぶりでしたが相変わらず元気いっぱい。 当時と同じ口調の曲紹介を懐かしく思って見ていました。 戦時中は母の郷里である三戸町に疎開していたそうで同い年の90歳。 つい先日、母にねだられて窓際のトットちゃんとその続編を送ったところでした。 それにしてもエネルギッシュな方ですね。 と、ここまで書いたら母からのLINEが届きました。 「明けましておめでとうございます㊗️ 私の希望で、富士山を見に河口湖に向かっています。」 相変わらずアクティブ!!! 長女宅の隣に住んでいるのですが基本的に自炊です。 朝夕2回の散歩を楽しみ、本を読み、絵を描き、ちぎり絵を作る毎日。 月に2回の陶芸教室とその仲間たちとの食事会。 好奇心と食欲は衰えを知りません。 あれが欲しい、これが食べたい、どこそこに行きたい。 頻繁にLINEが届きます。 90歳パワー恐るべし。 令和6年。私も負けないようにアクティブに行こうと思います。 [2024.1.1 坂本 徹] |
アーカイブ
1月 2025
|