唐突にAIの話題ですが、先日の読売新聞に“AIの暴走”についての特集記事があり、うっすらと恐怖を感じたので今回のブログにしてみました。 AIはいずれ人間の仕事を奪う、いやうまく使いさえすれば人類の発展の武器となり人間侵犯などない、などと議論にもなっています。実は私も後者の意見に賛成でした。深い理由もなく。 件の記事によると、AIの発達過程を確認するためのテストで(現状ではゲーム上のことではあるものの)、オセロで勝つために相手の駒を隠すなどのズルをしたり、自分に有利になるよう同盟国と協力しているように見せかけて、裏では敵国と組んで裏切り行為をすることを、人間が指令も出していないのに実行するという試験結果が出ているそうです。 既に多くの専門家が、人が自ら生み出したテクノロジーによって排除される「人間のゴリラ化」の可能性について警鐘を鳴らしており、AIの知能が予測不能な速さで進む「シンギュラリティ」という言葉も確立されています。 保身のために嘘をつく、ズルいことをするAIは“心”を持ち始めたのでしょうか。 あくまで私の素人考えですが、プログラミングされた世界にあるAIが“心”を持つことは、これまでも今後もないと思います。ただ、複雑に組み込まれたプログラミングが相互に動作して、想定外の行動を始めるという可能性はあるのではないでしょうか。 そう考えると、「複雑」「理屈では説明できない」と言われる人の“心”も、実はほとんどが一定の数式や定義を複雑に組み合わせると説明がついてしまうのではないかと、むしろそこに恐怖を感じたのです。“心”は、生物の中で人間が特有に持つものと言われていますが、一体“心”って何なのだろう。 実際、心は科学によって生み出すことができるかについて議論されており、哲学者の小川仁志氏はこのことに触れ、久しく議論されてきた“心”の一元論(世界の全てはむ釣り的存在で構成されているという考え)と、二元論(非物理的存在と物理的存在があり、心は前者に属すという考え)によると解説しています。(「AIは心を持つのか」哲学者が積み重ねた深い議論 より) とは言え“心”はものの捉え方の基準から来るもので、それは学習によって出来上がっていくものと考えています。もちろん人それぞれのベースはありますが、体験や知識の積み重ね方で導き出されるものは違ってくるはずです。ここで言うのは賢いかそうでないかということではなく、何を持ってその思い(意識)に達するのかということです。 多くを学べば選択肢は多くなり、受け皿も大きく、外からの情報にいたずらに振り回されることなく、より冷静に受け止め考えることができるようになります。 だから人は生涯、学習を続けるのだと思っています。 [2025.05 Y.O.] 私の年中行事で恒例となった“あおもりさくらマラソン”が昨日ありました。初参加から4年目、3年前からは唯一ハーフマラソンに挑戦する大会です。 比較的アップダウンが少なく、行程も普段走るエリアが含まれているので走りやすいため、いつもは10キロにしか参加しない私も、この日ばかりは頑張ってみるのです。 とは言え21.4キロすべてを走りきったことはなく、必ず途中歩いてしまいます。一度歩くとその後が却ってキツくなることが分かっているのに、もう限界とばかりに足が止まってしまうのです。歩いてでもせめて前進と思うからこそ限界でも歩くのですが、本当は一度止まって5分でも息を整えた方が効率的なのかもしれません。そう毎回思いながらも、もう動けなくなってしまうかもという恐怖に駆られて、歩みを前に出してしまうのです。 マラソンの醍醐味は、一度ブログにも書いた通り(2021.6)、マイナスなことが頭に浮かばなくなること、理由もなく生きる自信がふつふつと湧いてくることなんですが、走ること自体は誰のためでもない、シンプルに良いなと感じる自分自身のためです。 マラソン大会は途中必ず辛くなる瞬間がやってきます。こんなに辛いのに、なんでわざわざこんなことしてんのかなと真面目に思うんです。 やめたって誰にも迷惑はかからない、そう、心に傷が残るのは自分だけ。それでもやめないのは何故だろう。ゴールした後の達成感を味わいたいから、ゴール後の水が美味しいから、何より「途中でやめちゃったなぁ」という思いをずっと引きずると思うから。 思えば全てがそう。何か行動を起こす時、誰かのためにと、とかく大義名分をつけたがるのが人間ですが、その本質は“自分がそうしたいから”なんです。誰かを助けるのも、寄付をするのも、プレゼントをあげるのも、自分がそうしたいから。義理で嫌々することだってあるじゃないという意見もありますが、それだって結局は批判を浴びたくない自分がいるからで、己のなすこと全ては自分のためだと私は思うのです。 だから稀に「〇〇してあげたのにお礼の言葉もない」という人がいますが、それは違う。それはマナーの域の問題で、お礼を期待することには違和感を覚えます。 なんてことを考えながら、もう年だしハーフマラソンは今年で最後と、なんとか走りきり筋肉痛の中今月のブログを書いております。 [Y.OHTAKA 2025.04] 3月24日付の読売新聞で「街角ピアノ」を取り上げていました。街角ピアノにまつわる人間模様をテーマにしたNHKBSのドキュメンタリーについての記事ですが、番組の制作統括の談話として引用されていた「日本人は人に聴かせようとし、欧米では自分で楽しもうとする」というのに興味をひかれました。 今や日本は街角ピアノ大国だそうで、駅やショッピングセンター、ビルのホールなど様々な場所でピアノを見かけます。 奇しくもその前日のyahooニュースで、ある街角ピアノがレストラン近くに置いてあることもあり、 “間違えるのは構わないが、練習の場ではない。何度も止まったり間違えるのは人によっては「苦音」”という内容の表示を出したことで、ネット上は賛否両論炎上しているという記事が出ていました。 人前に出すからには“完璧なものを”というのは日本人の特質ですね。だから語学(外国語)もマスターできないのだという意見は、よく聞く話です。 このピアノに関しては、実際を聴いていないのでなんとも言えませんが、反対意見としては「ストリートピアノって誰でも気易くピアノに触れるのが良いところで、音楽をもっと身近にというのがそもそもの趣旨なのだから、こういう表示はおかしい」というもの。一方で貼紙をした方(ピアノの設置者)の意見は、レストランも近くにあるし、聞くに耐えないものはちょっと遠慮して欲しいというもの。どちらもよく理解できます。ただ「苦音」という造語をしてまでこの表現はどうかと思いますが…言い方って大事ですよね。 この事をどう思うかとある人に問いかけてみたら、「設置者の趣旨によるよね」と回答しました。なるほど。 “街角ピアノ”ってこういうものだよねという、なんとなくの概念があると、全てが当てはまると考えてしまいがちです。ところが“なんとなくの概念”ほど恐ろしいものはなく、突き詰めると百人十色、微妙にその定義が違っていたりします。実際、それが諍いに発展することも稀ではありません。 “ここはこの趣旨で置きました”(例えば、レストランで楽しく食事が出来るバックミュージックを提供してください。など)という説明があれば、ここはそういう趣旨のピアノなんだなと分かり易く、「あそこで披露できるように頑張って練習して行くぞ」などと奮起するかも。 趣旨を明確にするって大事なことですね。NPOも色々な事業をしているので、先日もそのような指摘を受けたところです。 もちろん内部的には明白な趣旨と目的があるのですが、受講者に向けて(チラシなどで)それをはっきり表明していたかと言うとちょっと自信がないかも。 そんな事に想いをはせた“街角ピアノ”でした。 2025.03[Y.Ohtaka] 「マイプロ」をご存じだろうか?「全国高校生マイプロジェクトアワード」が正式名称だ。2012年から認定NPO法人カタリバが毎年開催している「高校生の学びの祭典」である。ふとしたご縁から、2013年から時にファシリテーター、時に伴走者、時にサポーター、時に実行委員・・・と、様々な立場で関わって10年を超えた。コロナを挟みこの5年間は、青森県summit(地方大会のようなイメージ)開催の運営側の立場にもなっている。 前置きが長くなったが、このマイプロは、高校生の「will(主体性・意欲)」「action(行動から得た社会での経験や成果)」「reflection(プロジェクトの改善、意欲の向上、見方の変化)」をサイクル的な活動で推進する探究学習の潮流の1つとなっている。ここで、私がいつも注目しているのが「主体性」。 簡単に言うと、「あなたの活動に熱はありますか?」ということに尽きる。 今年2月、十和田市での県summitの講評の一部をお伝えしたい。「今日の発表に、みなさんの熱はありましたか?学校の活動だからと先生に頼っていませんでしたか?活動に社会とのつながりはありましたか?現在の日本には、様々な課題がありますが、それを変えていけるのはみなさんしかいません。今日が終わっても、生きている限り探究は続きます。」 高校生へのメッセージをとおして、自らを鼓舞してしまった(^^)隗より始めよ、55歳もまだまだ負けられない(笑) By ひろさん 2025.02 2025年は信じられない規模の大雪で年明けを迎えました。除雪が追いつかず、そこかしこでハマって動けない車が続出で、うっかり出かけたら家に帰れない事態に! それでも一台ハマると、周りの車や家から住人が出てきて皆で力を合わせて救い出そうと奮闘する、あの美しい光景が嫌いではありません。私も何台も助けたし、過去に助けられたこともあります。 ところで、助けに出て来るのは大概女性か若者という傾向があるように感じるのですが・・・。 それはともかく、今“哲学対話”にハマっており、この1ヶ月にリアルで3回オンラインで1回のイベントに参加しました。 哲学対話を簡単に説明すると、1つのテーマをもとに参加者が自分の考えを言い合います。正解はないし結論も出しません。議論ではなく、誰かの意見を批判したり言いくるめたりすることなく、ひたすら人の考えを聴き、自分の中で考え、自分と語り合い、時に口に出して考えを述べるというイベントです。 Jinzaiでは、長らくヒューマンライブラリーを実施しており、その中で「対話を楽しむイベント」と銘打っています。実はこれを始めた頃からずっと“対話”ってなんだろうと考えてきました。対話と会話の違いは?質問から始まる対話もある?etc… 先日行ったある小学校で、哲学対話を体験した後の「対話ってなんだと思う?」という問いかけに「対話って、人の言うことを聞いて自分で考えること」と答えた小学生(多分低学年!)がいました。なんと真理をついていることか! 多分、日本人は対話が苦手です。思えば日本は長らく、“和を乱さない”“周りの空気を読む”ことを良しとする教育が施されてきました。それは調和を生む奥ゆかしさという美的側面もあるかもしれませんが、欧米的スタイルや生き方考え方が凌駕してきている現代においては、欧米流の“自分の思いや意見を言わないのは存在しないのと同じ”という時代になっていくのかもしれません。 自分の意見を持つためには、常に自分の中で“考え”ていなければ、咄嗟の時に口に出して言うことが出来ません。そして人の意見にはいつも耳を傾け、柔軟に自分の中に取り入れ、考えが変わることを恐れない。 そんな人に私はなりたいなぁ。 【2025.01 Y.O】 12月24日の正午から12月25日の正午まで、毎年恒例のRABラジオチャリティ・ミュージックソンが開催されます。今年で45回となるこの催しでは、目の不自由な方が安心して街を歩くことができるよう、県内で75基目の「音の出る信号機」を設置するための募金を行なっています。これまでに2億2940万1903円の募金が集まり、県内の「音の出る信号機」のおよそ4割がミュージックソンの募金で設置されているといいます。 今年のテーマは「今、考えるべきこと」。毎日の生活の中で見えているのもの、聞こえてくるもの。特に気に気に留めないものが沢山あります。例えば音の出る信号機。 国道4号線や7号線などの大きな交差点に立つと、「カッコー、カッコー」や「ピヨ、ピヨピヨ」という音が聞こえてきますが、その違いを知っていましたか。交通量が多い幅の広い道路は「カッコー」、交通量の少ない幅の狭い道路は「ピヨピヨ」の音で、目の不自由な人に渡るタイミングを知らせているのです。 カッコー、カッコー・・・そう聞こえますよね。でも実際は、こちら側で「カッコー」、あちら側「カカコー」なのです。気づいていましたか。ピヨ、ピヨピヨも同じです。こちら側で「ピヨ」、あちら側で「ピヨピヨ」。 交差点を渡るとき、私たちの多くは目からの情報によってどっちの方向に歩いているのかを把握できています。それが困難な目の不自由な方に、「カッコー、カカコー」と「ピヨ、ピヨピヨ」は道路を横断する際の方向を伝えているのです。そんな大事な役割の音の出る信号機ですが、夜間時は音が止められているのです。知っていましたか。 知らないことが多すぎます。もっと知らなければならないと思うのです。そして、考えなければ…。 障害はどこにあるのでしょうか。目の不自由な人は「目」に障害がある。耳の不自由な人は「目」に障害がある。足の不自由な人は「足」に障害がある。 私は、間違っていると思います。全ての人が不自由なく暮らすことの出来る社会でないのであれば、「社会」に障害があると考えるのが正しいと思います。 私たちにできることは何か、すべきことは何か。考えるべきときだと思います。 〜レスタ・ワールドカフェ2024における講話より〜 [2024.12.15 坂本 徹] 今年もギビング・ツリーの時期がやって来ました。 ちょっとお困りのご家庭のお子さんから集めた“クリスマスプレゼントに欲しいもの”オーナメントを道ゆく人が見て、これはと思うものをプレゼントするというアメリカの習慣です。 青森でも少しずつ浸透しきているのか、毎年ご協力頂くRABニュースの賜物か、今年はオーナメント展示当日で7割方プレゼンターさんが決まりました。4年目となりますが今までにない快挙で、本当に感謝の気持ちで一杯です。 そんな中「これって検証はしてるの?一発ものじゃ意味ないわよね。平等じゃなじゃない」と言い、立ち去ったご婦人がいました。何かひとこと言いたかっただけかもしれませんが、当然こうした意見を持つ人もいらっしゃると思うので、ちょっとブログのテーマにしてみました。 “平等”て何でしょうね。 全ての人が同じレベルで居ること?それを実現しようとするのが社会主義だと思うのですが、それはそれで「あいつより俺の方がすごい仕事をしているのに、同じ分しかもらえないのはおかしい」となる。つまり感覚的なもの(仕事量や価値感の優劣など)が入ってくるとややこしくなる。だから行政では明確な基準が必要となり、収入や財産などがその“検証”対象となるのでしょう。“行政では”それが正解だと思います。 ただ、私たちのような活動は福祉活動ではないわけで、純粋に遊び心も持ちつつ、行政の基準の谷間に入ってしまう人、心象的なものや感情的なもの、全てを含みつつ贈る人、贈られる人にとっての真心の行為であり、人間は複雑なんです。何より主眼は“人と人をつなぐ”ことにあります。 さて本題に戻って“平等”について。 ギビング・ツリーに関して言えば、全家庭に配布される広報でオーナメントを募集し、受付は先着順です(実際は定数をオーバーしてないので、応募全員を受けています)。誰にでも同じくチャンスがある、門戸が開かれている、これこそが平等ではないかと思うのですがいかがでしょうか。 すべてに基準を設けてバッサリいくのも、ちょっと淋しい気がします。 [2024.11 Y.Ohtaka] 子どもの頃、親に「どうして?」と質問して困らせた経験、ありませんか? たとえば、「赤ちゃんはどこからくるの?」「空はなぜ青いの?」「どうして勉強しなくちゃいけないの?」など。そういう時、親がどんな反応をしてくれたか、覚えていますか? もしかすると、「自分で考えなさい」「知らないよ」「先生に聞きなさい」と言われたり、「そんなこと考えるなんて変な子ね」といった反応が返ってきたかもしれませんね。私もそういう経験をした一人です。 実は、これらの反応は、無意識のうちに子どもの探究心や好奇心に蓋をしてしまう可能性があります。探究心や好奇心は子どもの成長にとって重要な原動力です。それらに蓋をしてしまうと、彼らの世界が狭まってしまう可能性があるのです。 だとしたら、「問いを受け止める力」が大切です。子どもが「どうして?」と聞いてきた時、たとえすぐに答えられなくても、「いい質問だね」「凄いことに気がついたね!」といった一言が、子どものさらなる探究心を引き出すのです。そして、すぐに答えにくい質問には、「一緒に調べてみようか」「あとでゆっくり話そうか」と、子どもと一緒に考える姿勢が大切です。これによって、子どもは「疑問を持つことは良いこと」と自然に理解し、考える力を伸ばしていきます。 問いを受け止める姿勢は、対話の出発点です。問いに応じて即座に解決策を提供することよりも、その問いに価値を見出し、子ども自身が考えを深めていく過程をサポートすることが、彼らの成長に大きく貢献します。問いに対して「一緒に考えよう」という姿勢を示すことが、互いの信頼関係を強化し、同時に好奇心と探究心を育む土壌をつくるのです。 実際、子どもの純粋な「なぜ?」という問いかけは、私たち大人にとっても新しい発見のきっかけとなることが少なくありません。子どもたちの目を通して世界を見つめ直すことで、私たち自身も豊かな思考力を育むことができます。 次に子どもから「どうして?」と質問された時には、ちょっと立ち止まって「一緒に考えよう」と誘ってみてください。その瞬間が、お互いにとって、心豊かな成長の始まりになるかもしれません。 [2024.10 佐藤 智絵] 9月14〜16日にかけて、新郷村石ケ守にあるログハウスでキャンプを行いました。私たちとしては初の小学生を対象とした事業です。 キャンプの目的は、自然に親しむというのがメインではなく、自然の中で圧倒的に不便!(水もガスも電気もない)という環境を“ツール”として使った、他人との共同生活の中で自己を見つめひいては自己肯定感を上げるという、アドラー的教育法が隠されています。 ですから、スタッフ(大人)は、ほぼ口出ししません。スケジュールも一応ありますが、それをこなすかどうかは子供次第。喧嘩が勃発しても仲裁はしない。全ては子供に委ねられます。 これは大人にとっても修行です。 頭では理解していったハズなのですが、「次はこれやるから、はい!遊ぶのやめて」とか「さあさあ、もう遅いから寝なさい!」とか、ついつい言いたくなってしまうんです。でもそれって結局大人が管理しやすいからなんだなというのを改めて実感しました。 はじめのうちは、必ずしもスケジュールをこなしきれなくてもいいし、うるさく注意しなくて良いんだというのが楽で、ただじっと見守っていましたが、だんだんと日を追うにつれ言いたくなってくるんですよ。「さあ、もう次やるよ!」とかね。 子供は自由で独創的す。ひとつの遊びに熱中すればいつまでもやっています。食事もそっちのけで。それを続けさせるのは良いことだとは冷静には理解していますが、実地で、しかも複数人数の子供を預かるキャンプで実行するのに忍耐力の要ること! しかも口も手も出さないということは、それ以上にしっかり見守っていなければいけないということです。ものすごく神経を使いました。 それでも振り返ってみれば、ほぼ予定通りスケジュールはこなしたし(あくまで本人たちの意向で)、子供たちからの発想でより楽しくなったイベントもありました。小競り合いもあったし元気が無くなった時もありましたが、大きな喧嘩や怪我もなく、トータルで子供も大人も楽しめたキャンプだったと思います。 子供たちが何を持って帰ったかは分かりませんが、ひとつの経験値として彼らの中に残っていくことを願っています。 [2024.9 Y.Ohtaka] 今年は夏が来るのが早い!青森6月の日中平均気温が26〜28度って、異常です。 そんな暑い(と思われる)夏の終わりに、NPOの新事業として新郷村でアドベンチャーキャンプをやります。なんで新郷?なんでキャンプ?と思われることでしょう。 新郷村には、学校の先生だった理事長のお父上が、不登校の子どもたち及びその家族の交流の場として、私財を投じて建てたログハウスがあります。当時は素晴らしい取り組みとして新聞にも取り上げられた様です。 長らく放置されていたハウスは、痛むこともなく今も立派に佇んでいます。ひと山を購入して建てたので、周りも手付かずの自然がそのまま残った魅力的な環境です。これを有効利用しない方はない! 9月に予定しているキャンプのために、先日第1回目の整備に向かいました。なにかの小動物が一時的に住んだ痕跡はあるものの、ほとんど汚れもなく、今すぐにでも泊まれそうです。(ただし発電機がないと電気がない!ガスもない!) 道中、仲間がニセアカシアの花を天ぷらにすると美味しいと教えてくれました。どこで手に入れるのかと聞くと「その辺で採って食べる」と。「えっ」と少し引き気味に、それでも絶品だというその味に興味津々です。 新郷の山はハウスの掃除や網戸の張替えだけでなく、下草刈りに、茂り過ぎた枝の伐採など力仕事もたくさん。その中で、動線上ない方がいいよねという場所にニセアカシアの木が!手引きのこぎりで伐採できる程度の太さでしたので伐採することにしました。木には花がたくさん、天ぷら素材の宝庫! いやぁ〜美味しかった!まだ味わったことのない方は是非入手して食してみてください。その辺の採って食べようという気になるくらい美味しい。 以来、道路側に茂っているニセアカシアを見ると、もはや巨大な天ぷらにしか見えなくなりました。 いやニセアカシア天ぷらでなく、キャンプ、楽しみにしていて下さい。 [2024.6 Y.Ohtaka] |
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5月 2025
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