記録といえば、遠い昔は記述や絵、そして写真やビデオが登場、今はほとんどスマホですね。 今はあまりにも簡単に目の前の状況を動画で撮ることができ、しかも人に見せたいという欲求をすぐに満たしてくれる世の中です。「あ、キレイ!」という感動ものや「おお、珍しい!」という、偶然の感動的瞬間は見てもらえる確率も高いし、撮った方もより見てもらいたいという気持ちになるでしょう。 一方で、あまりに簡単に“撮れる”ために、感性がどんどん失われていっているのではないかと、私は勝手に心配しています。 先日安倍元首相の出棺をスマホで撮影している人がたくさん居て、その是非についてネットを賑わしました。「さすがに不謹慎」という人、「これが最後なんだからせめて車くらい撮って残しておきたい気持ち、分からないかなぁ」という人。どちらも理はあると思います。が、私は記録より記憶に残したいなぁ。 少し前の日本人ならば、畏敬の念とでも言うのでしょうか、感覚的に葬儀の場にカメラを向けようという気にはならなかったと思うのです。 知り合いの消防士に聞いた話ですが、電車の人身事故の際事故処理をするのは消防士の仕事で、業務のひとつに撮影から事故現場を隠すというのがあるそうです。彼は若いのですが「本当に信じられない」と言います。「たとえ見ず知らずでも、人が目の前で死んでるんだよ?そこにカメラを向けられる?その神経が信じられない」と。普段スマホ大好きの彼から聞いたその言葉にはっとしました。なぜなら、自分はしないとは思うけれど、撮っている人を見ても別に気にしなかったかもと一瞬思ってしまったからです。私も毒されていたなと。 人の生死を毎日のように目の当たりにしている彼だからこそ、余計に感じるのでしょう。でも、こういう感覚を忘れてはいけないと思うのです。科学が進んで色々なことが便利になると、感性が失われていくというようなことを、心理学者の河合隼雄が言っていました。本当にその通りだと思うのです。 そこになんとも言えない不安を感じるから、Jinzai-Japanでは人を感性で繋げる事業をしているのです。 [2022.08 Y.Ohtaka] |
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6月 2024
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