1994年4月、青森県教育庁生涯学習課へ異動になった私に与えられた仕事は、3年間をかけて「県民カレッジ」を作れというもので、3000万円の予算が用意されていました。それまでに手掛けた事業とは桁が2つ異なります。30代と若かった私は大いに燃えましたが、まだ実際に構築した県は無く参考にできる事例も乏しいので、どこから手を付けていいかわかりません。 呆然としている私に声をかけてくださったのが当時の生涯学習課長でした。「ここに真っ白なキャンバスがある。貴方の好きなように理想の生涯学習の姿を描いてみなさい。」と。気負い過ぎていた肩の力がすーっと抜けました。具体的なものはまだ何もありませんでしたが明確なイメージがわいてきました。「お爺ちゃんとお孫さんが手を繋いでニコニコしながら通う県民カレッジ」です。目指すべき方向が定まった瞬間でした。 しかし、現実は厳しく、とんでもない巨大な壁に挑んでいることを思い知らされます。当時は生涯学習に勤しむ人は少なく、講座なども多くはありませんでした。インターネットもない時代です。そのような状況の中で、「生涯学習の需要を掘り起こし、学習機会の供給を生み出し、それを繋ぐ全県の情報網を整備する」ということを同時進行で求まられたからです。 かの上司に「どこから手を付けるつもりか」と尋ねられ、「できるところから」と答えた私に、「そんなやり方では100年かかっても完成しない。いいか、こうやるんだ。」彼はそう言って、目の前の机のあちこちにあった物を両手で掴み、一気に中央に引き寄せて見せました。本質を捉え、周到に準備をして一気に勝負!…彼から教わったやり方は、その後の私の仕事のスタイルとなり、スキルアッププログラム(17年)、キャリサポ(16年)、ロービジョン相談支援センター(10年)などを生み出すこととなりました。 上司の名前は中島邦夫氏。私が師と仰ぐ一人です。長らくご無沙汰していますがお元気でお過ごしのことと存じます。「県民カレッジ」は開設から26年になる長寿事業となりましたが、坂本徹の重要な「源流」のひとつに他なりません。 [2022.3.1 坂本 徹] (写真は、東京↔青森を通信衛星で結ぶオンライン講座) |
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9月 2024
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