先日、20年ぶりに長崎原爆資料館を訪ねました。前回は修学旅行の引率で慌ただしい日程でしたが今回はゆっくり。目的は原爆の真実を改めて確認すること。 展示室のある地下2階へカウントダウンの数字をたどって円形スロープをゆっくりと下って行きます。2000、1995、1990 ・・・1950 、そして1945年にタイムスリップ。入口に「長崎を最期の被爆地に」 というメッセージと共に、11時2分で止まったままの壊れた時計が展示してあります。 かつて我が家の居間にもそっくりな時計があったのを思い出しました。父母の結婚記念のゼンマイ仕掛けの柱時計です。幼少期から高校まで僕はその時計の下で過ごしました。両親や妹たちに囲まれ、裕福ではないけれど穏やかで平和な暮らしでした。アニメ「サザエさん」のような昭和の時代のささやかな幸せ。あの頃は気にも留めない存在でしたが、柱時計はどの家でも小さな幸せの象徴であったとように思えるのです。長崎にもそんな平和な暮らしがあったはずでした。1945年8月7日 11時2分、それが一瞬にして消え去りました。 他人事ではないのです。たまたま長崎だったのであって、日本中のどこもが被爆地になる可能性があったのですから。当初、原爆投下の第一候補が京都であったことや、模擬原子爆弾による投下訓練が全国30都市で49回も行われていたことはあまり知られていません。8月7日当日も、小倉(北九州市)の予定が天候のせいで急遽長崎に変更されたのでした。 戦争を終わらせるため…今でもそう主張されていますが、だからと言って民間人の大量殺戮が正当化されて良いわけはありません。数々の遺物がその悲惨さを証言し、その後も苦しみ続けた人々の声が聞こえてきます。真実を確認するために再訪したというのに目を覆い耳を塞ぎたくなるほどです。本やネットの情報で理解したつもりになっていましたが、『何も知らなかった自分』に気付かされました。 爆心地に立って辺りを見回すと、そこには静かな公園と住宅街が広がっていました。ゼンマイ仕掛けの柱時計はないかもしれないけれど、どの家でも平和な時が刻まれているはずです。「長崎を最期の被爆地に」 というメッセージと共に。 近いうちに30年ぶりの広島を訪ねようと思います。 [2024.3.26 坂本 徹] コメントの受け付けは終了しました。
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