突然のカミングアウトではありますが、私の生まれは東京オリンピックイヤー。ちょうど開会式の1ヶ月前に産声をあげました。当然赤ん坊の私が東京オリンピックを覚えているわけはありませんが、ブルーインパルスが描いた五輪のシンボルマークとか、東洋の魔女と騒がれた女子バレーボールなど、その後のテレビ紹介で記憶に焼き付きました。 さて、今回の東京オリンピックは印象的な招致のプレゼンが話題となり、日本がオリンピックに向けて一気に盛り上がると思いきや、メインスタジアムの設計変更から始まり、コロナによる延期、委員長の交替やら何やら、極め付けは開催自体の賛否両論と、随分問題を抱えての開催でした。 それでも始まってみると、毎日気になって仕方がない。だって競技は実際に行われているんだもの。 先日、卓球の混合ダブルスで日本が中国ペアを破り悲願の金メダルをとりました。負けた中国ペアは、自国のメディアインタビューでかなり責められたと記事にあり「頑張ったのに気の毒に、やっぱり社会主義の国は厳しいね」と思った人も多いのではないでしょうか。でも少し前までの日本もそれほど変わらない感じでした。選手は“国”を背負って、何か悲壮感すら感じられたものです。入場は一糸乱れず折り目正しく「オリンピックを楽しむ」なんて言ったら叱られる雰囲気がありました。 最近では、日本の選手も開会式の入場から自由で本当に楽しんでいる様子が伝わってきます。競技でも勝てばストレートに喜びを表現するし、負けた時の悔しさには悲壮感は感じられません。本当に自分のために、好きだからスポーツに打ち込んでいる様子が伝わってくるので、見ている私たちも一緒に一喜一憂できるのだと思います。これぞ“共感”です。 それに競技とは別に、選手同士の交流とかオリンピック村の様子などのニュースも結構私は好きです。こんなコロナ禍で開催された“特殊な”大会ではあるけれど、やっぱり色々な意味で国を超えた心の交流がオリンピックにはあるんだなと改めて実感しているTokyo2020です。 [Y.Ohtaka 2021.8.1] コメントの受け付けは終了しました。
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