3月24日付の読売新聞で「街角ピアノ」を取り上げていました。街角ピアノにまつわる人間模様をテーマにしたNHKBSのドキュメンタリーについての記事ですが、番組の制作統括の談話として引用されていた「日本人は人に聴かせようとし、欧米では自分で楽しもうとする」というのに興味をひかれました。 今や日本は街角ピアノ大国だそうで、駅やショッピングセンター、ビルのホールなど様々な場所でピアノを見かけます。 奇しくもその前日のyahooニュースで、ある街角ピアノがレストラン近くに置いてあることもあり、 “間違えるのは構わないが、練習の場ではない。何度も止まったり間違えるのは人によっては「苦音」”という内容の表示を出したことで、ネット上は賛否両論炎上しているという記事が出ていました。 人前に出すからには“完璧なものを”というのは日本人の特質ですね。だから語学(外国語)もマスターできないのだという意見は、よく聞く話です。 このピアノに関しては、実際を聴いていないのでなんとも言えませんが、反対意見としては「ストリートピアノって誰でも気易くピアノに触れるのが良いところで、音楽をもっと身近にというのがそもそもの趣旨なのだから、こういう表示はおかしい」というもの。一方で貼紙をした方(ピアノの設置者)の意見は、レストランも近くにあるし、聞くに耐えないものはちょっと遠慮して欲しいというもの。どちらもよく理解できます。ただ「苦音」という造語をしてまでこの表現はどうかと思いますが…言い方って大事ですよね。 この事をどう思うかとある人に問いかけてみたら、「設置者の趣旨によるよね」と回答しました。なるほど。 “街角ピアノ”ってこういうものだよねという、なんとなくの概念があると、全てが当てはまると考えてしまいがちです。ところが“なんとなくの概念”ほど恐ろしいものはなく、突き詰めると百人十色、微妙にその定義が違っていたりします。実際、それが諍いに発展することも稀ではありません。 “ここはこの趣旨で置きました”(例えば、レストランで楽しく食事が出来るバックミュージックを提供してください。など)という説明があれば、ここはそういう趣旨のピアノなんだなと分かり易く、「あそこで披露できるように頑張って練習して行くぞ」などと奮起するかも。 趣旨を明確にするって大事なことですね。NPOも色々な事業をしているので、先日もそのような指摘を受けたところです。 もちろん内部的には明白な趣旨と目的があるのですが、受講者に向けて(チラシなどで)それをはっきり表明していたかと言うとちょっと自信がないかも。 そんな事に想いをはせた“街角ピアノ”でした。 2025.03[Y.Ohtaka] コメントの受け付けは終了しました。
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3月 2025
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